待ち人 インノは ふわぁー と、あくびをしました。教会の天井に架けられた小奇麗な梁から赤い絨毯を見下ろすと婦人たちが讃美歌を歌い、村人が祈りを捧げていました。「調子はどうかね。」インノの背後から神様が顔を出しました。「いつも通りで、退屈ですよ。」ふたりは人々には見えていないようです。「それは結構なことだ。」「最近は、あくびをするのが仕事ですよ。」インノはか細い腕で目をこすりました。「ところで、目立つところに佇む癖は直らんのかね。」「どうせ人間には見えないじゃあないですか。」「間違っても見つかりたくないのは、君のほうじゃないか。」神様はインノの言葉に顔をしかめます。「それはあなたが決めただけのことですよ。」「君はよくわからんな。」神様が重たい体を反転し、帰ろうとすると、インノは大袈裟にお辞儀をしました。「大いなるご主人。人々に平和を。」神様は困ったような顔をしながら、「君のそういうところが、非常に天使らしくないと思うのだがな。」と言って、人間の知らない世界へ帰っていきました。インノが梁に座りなおして、再びあくびをしかけた、その時です。「ねえ、おかあさん!」まだ止まない讃美歌の中から、子供の声が届きました。「こら、静かにしなさい。」「天井だよ、天井に、へんなのがいるんだよ。」「ここは教会よ。あなたは神様を信じる心が足りないんだわ。」子供と目を合わせたインノは、足元にピリリとした痛みを感じました。「おお。やっと来たか。」インノはあくび混じりに呟いて、全身に少し痛みを感じながら、焦げるように消えました。… …「おい、さっき注意したばかりじゃないか。」人間の知らない世界に飛ばされたインノに、神様は驚きました。「ずっとあの子を狙ってたんですよ。ついに今日というわけです。」「お前は天使だろう。人間に見つかってはいけないのだ。」神様の表情は次第に曇っていきます。「お前は”人間の知らない世界”の門の前で、重力に逆らって暴れてみせた。 そんな危険な魂を、天国には送れない。だから天使の仕事をやったというのに。」「そのご恩はこのインノ、一生忘れません。」「違うだろう、天使は人間に姿を見られたら地獄へ堕ちるのだと、何度も何度もお前に注意したはずだ。」その口調は怒りを帯びてきました。「堕ちた先が地獄かどうかは、あなたが決めただけのことですよ。」「救えぬやつだ、地獄へ落ちるがいい。」神様が怒り、そう言うと、インノの足元は真っ暗になり、闇が球体になってその体を覆いました。「地獄に落ちては転生もできぬ。どう思おうが、地獄は地獄だ。お前は恋人を探していると言ったが、彼女への思いはその程度だったのだな。」インノは地獄へ堕ちました。… …「まさか、インノなの?」「久しぶりだね。さあ、地獄で一緒に暮らそうか。」人間の姿に戻ったインノはついに、探し続けていた恋人の元に辿りつきました。「どうして、あなたが地獄なんかに。あなたは善良に生きて、事故死しただけじゃない。」彼女はインノを見るなり、目を潤わせました。「君を愛するあまり、死にたくなくて、あの世の重力に逆らったんだ。」「それがどうして?」「そしたら神様が、ぼくは危険だと言って、天使にしてしまったんだ。天使というのは、人間に姿を見られたら地獄に堕ちてしまうんだよ。」「ならばどうして、あなたは人間に見つかってしまったの。」彼女は少し不安そうに言いました。きれいな瞳は、どこか恐怖をおびています。インノは彼女の目を見つめると、幸せそうに笑いました。「君を一目見たいと思って、危険を承知で君を探しに行ったんだ。 そこで全てを知ったんだよ。」彼女は一歩、後ずさりをします。「君は間違いなく地獄に堕ちるだろうと確信した。 ぼくはね君のことを心から愛しているんだよ。 地獄に堕ちたら、転生しなくていいんだ。 ずっと一緒に暮らせる。ずっとずっと。」インノはとても嬉しそうに笑います。彼女はこわばった顔で、インノから離れようとしました。彼女の細い腕を、インノはしっかりと掴みます。「嫌なのかい?」その質問に、彼女が思わず目を逸らすと、インノは彼女を抱き寄せました。「いいえ、決して、嫌ではないわ。」彼女の目には涙がきらめいています。「そうかい。じゃあ、ずっと地獄で暮らせるね。」「ええ、嬉しい。」インノと彼女は、永遠に、今でも、地獄で何もない暮らしをしています。 PR