博識の老人はまだ何も知らない 都会には慣れたつもりでいる。ぼくはいつものように顔を洗って、いつものように真新しいスーツに袖を通した。『まだ実家には帰れない?』彼女からのメッセージは絵文字もない、寂しいものだった。『そうだね、帰るなら二日がかりになるし』帰りたくないわけじゃない。でも、帰りたいわけでもなかった。***周囲の町から少し奥まった山間にある、寂れた町。そこがぼくの生まれ育った場所だった。ドラマに出てくるような田舎の風景……というわけでもなく、それなりに栄えていた所がただ廃れていっただけの町。子どもの頃から、父さんとは仲がよかった。山や川に連れていってもらったし、家で映画をたくさん観たりもした。父さんは映画が好きだったから、年に1度は都会まで足を伸ばして映画館に行っていたと思う。父さんと観るのは、アクションやサスペンスものばかりだった。ラブ・ストーリーや家族愛がテーマのものは、なんとなく御法度だったんだ。高校までは地元で過ごしたが、さすがに外に出てみたいと思って、大学は遠く離れた都会にあるものを選んだ。学校の理念に共感してとか、行きたい学部があるとか、立派な動機は無かった。2年も過ごせばすっかり都会にも慣れた。3年目からは彼女もできた。田舎から何も考えずに出てきたわりには、順調な人生を歩めている気がする。父さんに迷惑をかけないよう、必死でバイトをした。時々仕送りを貰ったが、気を遣わないでくれと電話をしてからは、無くなった。そうして、気づけば高校卒業以来、父さんに会っていなかった。父さんの再婚を知ったのは、3年生の秋のこと。突然電話がかかってきて、「お前に紹介したいから、近いうち帰ってきてくれ」と言われた。就職活動の真っ只中で、バイトも続けていたぼくは、「今は忙しいから、就職決まったら行く」と返事をした。いつか彼女と結婚したい。そう思い始めたのは4年生になった頃だ。彼女はこちらが地元だから、あまり迷うことなく都会で就職することを決めた。ぼくはまた懲りずに、「都会ならどこでもいい」と思って、手当たり次第応募したんだった。夏になって、なんとか就職が決まった。大企業ではないけど、知っている人は知っているくらいの会社だ。早く父さんに報告したい、その一心で受話器を取った。***ここは何もない平野をガタガタと走る2両編成の列車の自由席。隣に座った彼女が不安そうに呟く。「何でもないと、いいんだけれど」ぼくは、うん、と頷いて、車窓の景色をぼんやりと眺めた。びゅんびゅんと通り過ぎていく樹木に、ゆっくりと姿を消していく山々。いつか行ったことのあったレンタルショップや、キャンプに行ったことのある河川敷。ぼくの脳裏に、父さんとの思い出が次々に蘇る。今まで顔を見せてやれなかった後悔や、今だからわかる父さんの優しさが、ぼくの心をいっぱいにした。「次の駅で降りるんだよね?」彼女の呼びかけに、ぼくははっとして頷いた。うまく言葉が出なかった。緊張が邪魔をしたようだった。改札を抜けて、何の変哲もない下町を彼女と歩く。一度父さんに会ってみたいと申し出てくれた彼女に、ぼくは救われた。ぼくひとりでは、途中で引き返してしまったかもしれないから。少し変わってしまったけれど、懐かしい道だ。よく遊んでくれた友達の実家や、シャッターが下りている駄菓子屋。いつの間にかできたコンビニは、その前に何があったかあまり思い出せない。ちょっとしたトラウマを植え付けられた歯医者の角を曲がって、少し歩くとぼくの実家がある。思い出の詰まった家。父さんが待っている家だ。玄関に変わったところはない。窓から見えるカーテンの色は、少し変わったかもしれない。呼び鈴はモニターつきのものに変わったらしく、表札の隣に真新しい黒いインターホンが設置されていた。一度。唾を飲む。父さんじゃない人が出てきたらどうする?いや、大丈夫。電話に出た声は父さんに違いなかった。大丈夫。何度も自分に言い聞かせて、指を出したその時、「あっ、人が」と、彼女が慌てた声を上げた。顔を玄関扉へ向けると、老人がこちらを覗いていた。「……父さん?」まだ還暦も迎えていないはずの父さんは、ほとんど白髪で、何のこだわりもないようなヘンテコな服を着て、少しずれた眼鏡の奥からぼくを見つめていた。この人は、父さんのはずだ。いや、父さんの、未来の姿を見ているのだろうか?哲学的な思考がぼくの頭の中を駆け巡った。これは父さんに見えるが父さんじゃないのかも。父さんの形をした浮浪者なのかもしれない。彼女はその異様さに怖気づいたようで、一歩後ずさりをしたまま無言だった。ぼくも同じだ。一言も発することができない。ぼくらの様子をしばらく眺めていた父さんは、玄関から出てこちらへ歩み寄った。日の当たる場所に出てみると、さっきより幾分生気を感じられた。大丈夫、これは父さんだ、ぼくを育ててくれた人だ。ぼくは少し自信を取り戻し、勇気を振り絞った。「父さん、遅くなってごめんなさい。就職決まったよ。」父さんは少し傾いた口を開く。あぁ、昔からそうだった。へそ曲がりで、屁理屈をこねる父さんは、いつからか口が曲がっていたんだった。そんなところが少し嫌だったけど、そんな父さんから学んだことは多かった。だから、もっと早く帰って来ていれば……と思ったんだ。「どちら様かね。私には君らのような若い男女の知り合いは居ないと思うが」父さんに、もっと早く会いに来ていればと……心から、思ったんだ。 PR